あなたは 人目の迷い子です

2004年12月22日

夢の中へ

少し久しぶりの日記です。

日中の温度が大分下がっているイギリスですが、冗談じゃないですよ、寒過ぎます。今朝なんて部屋で白い息出ましたよ。

いやー、自分だけの時間は楽しいですね(何事
最近この静かな空間が楽しくてたまりません。

昨日はゾンビだったのに最後のクリスマスショッピングの為、街に出掛け、ちょっとぶらぶらしていました。でも帰ってきたのは丁度お昼頃です。バービンガムロイアルバレエ団にて、ヌレエフとフォンテーヌの「ロミオとジュリエット」のビデオを購入したので、それを観賞しながら寝ようとヲタク計画をたてて、ベンモントに電話しました。

この電話でベンモントはまたもや天然の恐ろしさに気付いたと言います。

元々何故ベンモントに電話したか話しましょう。
ベンモントは夜中に愛の篭り過ぎた恥ずかし乙女なしゅうちゃんの壁紙を送ってきましたのです。本当はその時電話したかったのですが、飲んだくれの親友のステイーブン氏に邪魔されたので次の日に話す事になりました。それまで卒論の第一章をもっと明確にしようというプランで徹夜してました。思っていた程時間がかからなかったので、午前4時頃アレクサンダー大王の戦術を燐寸で再現していました。これが、シルビアさんの脳味噌を沸かした事実だと思われます。ヲタクの極致とはこの事でしょう。将来の旦那様が見たら後悔どころか、将来をキャンセルされる光景です。勉強しているのはいいんです。でもBGMでドラマーの研究の為、色んなバンドの濃い音楽を流し、あ、でも気分変わった、今はオペラが聴きたいと次はコチュルバスのヴェルディーの「つばめ」をかけ、また気が変わり、またラルクの「Heavenly」を聴きながら、やっぱSAKURAのドラムは良いよなーと一人ブツブツ独り言を連呼させ、アレクサンダーの戦術を燐寸で再現しては、「これ、自殺行為やでしかし。あんさん戦術的には凄いけど戦略的に言うと最悪でおま」等ブツブツ言いながら、煙突のように煙草を喫う姿は殿方どころか、家族でない方には見せれる光景ではないです。

先週、親友がバーミンガムに遊びに来るというので駅まで迎えに行く途中、デパートをぶらぶら見ていると、「あの、すいません、貴女程美しい人はわたしの人生の中で見た事がありません」といきなり視界に飛び込んできた殿方(因みに強制的に彼の電話番号を携帯にインプットさせられ、夜ご飯に誘われました - 勿論行きません、電話もしていません)はこうゆう光景を見たら「すいません、間違いでした」と言うんですかね(笑)。いやー、眼は大丈夫ですかとこちらが尋ねそうになりましたよ。綺麗な金髪のナイスガイなら、バーに行くともっと綺麗なオネエさんと一夜を過ごせただろうに(笑)。相変わらずシルビアさんの周りは変な人で溢れかえっています。シルビアさんが変人なので仕方ないのですが。

それにしても寒い!手が痺れてきました。ひー!

そうです、話を元に戻しましょう。
ベンモントが送ってきたしゅうちゃんの壁紙ですが、久し振りにいい壁紙を見た感じがしました。感じがしたのではなく、ベンモントのしゅうちゃんへの愛をわたしが受取りました(受け取るなー!
本人は技術的には変だの何なのってちゃんちゃら可笑しな事言ってますけど、いい壁紙作るのに決まったテクニックなんて要らないのよ!わたしがどんなにKA-YU氏が好きだからって、どんなに四苦八苦したって作れない壁紙です。見たい方はベンモントに110番してください。

あー寒い!今日これでスープ3杯めですよ。
今回は窓の近くに置きませんからね!(3回めで何故スープが冷めるのがこんなに早いのかやっと判った人

そう、そしてベンモントに実際話た時にはゾンビになっていたので、可笑しな事を言っていたらしいのです。それはシルビアさんがアレクサンダーの戦術の前に、アリストテレスの背景知識として読んでいた本を3冊読んで辿り付いた結論からでした: 自分が古代ギリシャで哲学やってたら、

神になってたかもしんない。

一番説得力がある神の冒涜じゃないですか。
明日にでもバチカンから赤紙が届きそうです。
その前にアリストテレスを敬愛されている方から抗議の手紙が届きそうです。

元は、天然ちゃんはもしかして古代だったら天才だったかもよというちゃんと筋が通った推理だったんですけどね、それを他人に真剣に話す辺り、天然の他何者でもないと気が付きました、さっき。

その変なノリで話がしゅうちゃんから逸れ、SAKURAの素晴らしさ、YOSHIKIの伝説等を熱く語ったと思われます。もうちょっとでSteven Salas 様の素晴らしさまで語るとこでした。しゅうちゃん、ごめん。

最終的にはベンモントと現代哲学者さん達の話をしていたと思います。
電話は3時間にも亙たっといいます。
そりゃ、ベンモントでも話の基点は何処だったか忘れるっちゅうねん。

要は、音楽の聴き過ぎと学業のカクテルは危ないという事です(笑)。

この後ご満悦だったシルビアさんは、フォンテーネの驚異的な「ジュリエット」を観て深い眠りについた訳ですが、アレクサンダー大王のせいで夢の内容は未来的な戦争の「指揮」でした。かなりリアルでした。何回、「退却!」と夢の中で言った事か。揚げ句の果てには自分が指揮官を務めていたので色んな意味で怖い夢を見ました。

それにしても、素敵過ぎる絵をベンモントが載せいるのでTrack backしてやりました。その絵も送ってきなさい。
posted by シルビア at 03:01| Comment(11) | TrackBack(1) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年12月19日

SWAN Part 3

マージ

真澄はニューヨークでバランシンの愛弟子、マージに出会います。マージはこの漫画においてわたしが大好きなキャラの一人です。彼女の踊りはまるで音楽を目で「観て」いるかのような踊りです。彼女は煌びやかで、明るく見えますが、長い間同期のスザンヌ ファレルの陰にまわり、辛い思いをしたダンサーです。しかし彼女の踊りにはそんな苦労等微塵と感じさせない、彼女の見せる個性的な踊りは何処からきているのか。わたしが解釈するに、マージは非常に頭の良いダンサーです。「プロ」としての意識もあり、また彼女の技術は揺るぎない「安定感」を示します。真澄がロイアルでフォンテーンと会話した時に、「真澄、際立ったテクニックをみせるにはたいへんな努力がいりますがそれを隠すにはもっともっと大きな努力が必要です。そしてテクニックはみせるものではなくてあくまで芸術性を積み上げるための土台としなければなりません」とフォンテーヌなりのプロとしの意識を教えられますが、それがマージの踊りに通じます。安定感は技術の持続性からもきていますし、また、観客に「技術を見せてるのではなく踊りを見せている」という錯覚さえ起こす踊りからきているのだと思います。彼女の踊り
にはまるで個性がないかのように見えると真澄は勝手に思いますが、この揺るぎない技術、持続性、そして持続性からくる「エネルギー」はダンサーとしては大変な個性です。真澄はそれに気付くのですが、またもや他人の個性や凄まじい踊りに動揺します。しかし、マージの踊りを観て「踊りたい!」と思ったのには彼女の成長と欲が反映されているのではないでしょうか。この時点で真澄は技術的に誰にも劣っていないのですから、後は本人の意欲と根性だけです。
余談ですが、マージのような踊りを観た事があります。マヤの「薔薇の死」です。
音楽に合わせた、究極の「美」だとわたしは思います。何故か。この踊りでは高度なテクニックや動きがあまりありません。10分もない踊りは、薔薇が枯れ落ちていく「姿」を踊りにしていますが、マヤ特有のアームスの細やかな動き、頭から指先まで生命とエネルギーがが自然と流れているシンプルな踊りは今観ても心が動きます。シンプルに見えて、本当は非常に高度でしかも個性からくるテクニックを静かに見せた踊りです。音楽と合った細やかな「動」には身体が緊張する筈ですし、集中力も必要です。それをマヤの踊りは努力をしているという押し付け的なものは一切なく、ただ音楽を目で観ているかのような統一した踊りと非常に安定した技術から彼女にしかできない踊りを踊りますが、マージもそんなダンサーではないかと思います。
確かにバランシンの振付けを誤解していては、彼の踊りを踊るダンサーの個性を感じるのは難しいと思います。しかし、その押し付けの個性や見せ付けるだけのテクニックが存在しない踊りに本当の「個性」が宿ると思います。良い意味で非常に計算されたプロ意識ではないでしょうか。観客に心配をかけない安定感、エネルギッシュで統一した踊りには個性だけではなく、観客と自分の踊りと一緒に
呼吸する「生命」があります。
色んな意味でマージは真澄にとって良い刺激になったと思います。彼女の踊りを観て「踊りたい」と思うのが一番の証拠です。長い間アメリカが生んだ天才ダンサーの陰にまわったマージのダンサーとしてのスタイルは真澄にも共通すると思います。

ファニー

真澄の同居人のファニーはまだ生徒としても幼いのですが、彼女もまた自分の限界と闘い自分なりの意見を持った賢いダンサーです。ファニーはエドという物静かなパートナーの期待に応えられない、自信がないと真澄に言います。そして真澄は、「そんなことないわ!あなたならできるわよ!どんなことでも一生懸命やれば必ず。。。」と言いかけるのですがファニーはそれに対してこう言います。「そのことばはステキね。でも一生懸命やっても、どうしてもできない人のほうがどの世界も多いと思うわ。やればできる。。。なんてセリフ、本当にできる人だけのものよね。才能のある人ってホントすごいのよね。こともなげに世界や芸術の話をするんだもの。それがあたりまえに。。。できない人をまるでやらない人のように非難したりもするわ」と。わたしはいつもこの場面を読む度に泣きそうになります。それはわたしが実際これに似た事を言われた事があるからです、親友に。わたしが何でも自分なりに頑張れば何でもできると信じていた頃に聞いた言葉です。彼女は女優願望があったにも関わらず、シェイクスピアのいわんとしている事が判らない、台本を読んで記憶力があるのは良いけれど自分なりの解釈ができない。そんな問題を抱えた少女でした。でもわたしから見たら、ミュージカルの主役も努めた彼女が何故そんなにも自分を追い込んでいたか、理解してあげられませんでした。わたしはプリンシパルダンサーだけでしたし、どう見ても彼女の方が凄いと思ってました。が、彼女は、「貴女は何時もステージに立つと人の注目を一番に浴びるわ。端で一緒に踊っているとそれが屈辱的にさえ思える。唄だって、元の音楽的な根本と性質が違うし、それに貴女は知的だし、わたしなんかより。。。」と、彼女なりの心の叫をぶつけました。わたしは彼女がそんな事を思っていたなんて、一度も思っていませんでした。わたしは元から競争心が非常に低い人間です。自分は自分なりに出来る事をしていれば良い事ですし、他人がどんなに自分より優れていても、劣っていてもそれは自分を高める土台なんかにならない。一番の批判者と実行者は自分だと考えていましたから。わたしと彼女の根本的な違いは、自分より凄い人に出会うとどうゆうリアクションを取るかにあると思います、未だに。わたしの場合、元々自尊心がない人間は、「うわー、あの人凄いなー。どうやったらあんな踊りができ、唄が唄えるのかな」と「考え」ます。そして、自分とその凄い人物を比べるのではなく、その人の素晴らしい所から何を学べるのか考えます。しかし、彼女の場合では、いつも比較の問題でした。でもそれでは自分を追い込むのではないかと聞いた時、「そうしなければ、自分がどんな人間なのか判らないの。何も貴女みたいに元から個性を持っていないのよ」と言うのです。でもわたしだって、初めは個性どころか、技術も
薄弱でしたし。。。
しかし、ファニーと同じで、本当に自分が自分で思う程自分に才能がないのかがポイントではなく、そうゆうスタンスで自分を見直す考えと意識が必要であるという事ではないでしょうか。わたしは、わたしの親友が才能がないとは一度も考えた事はありません。ただ、アプローチ次第で自分を生かす事もできれば殺しもでききる事、そしてこの世の中にはどう頑張ってもできない事もあるのだと初めて教えられたような気がしました。彼女の恐怖はファニーと一緒で人から期待もされないアーチストになる事だったのでしょう。でも、わたしはその頃彼女のそんな葛藤を理解してあげられなかった事を今でも悔やみます。しかし真澄には、ファニーの言葉は心に響いたと思います。そんな考えを持った人もこの世の中にはいるという事は知っておかなくてはいけない事でしょう。

ルシイ

ルシイと真澄の関係のあらすじを少し話します。ルシイは真澄の初めての恋人です。実にチャーミングで、天使のように皆の心を温かくしてくれる、また個性的で優しいキャラでもあります。真澄が迷った時には必ず助けてくれる、レオンとは全く逆反対の頼もしいダンサーです。しかし、彼は不幸な事に病いに倒れ、結果的には亡くなります。わたしはルシイが大好きです。少し我侭で、独占欲が強い彼は真澄がレオンと踊る事さえ許してくれません。でもそれはルシイがレオンが真澄に魅かれていて、いつかは真澄を取られるのではないかという不安感からきているのだと思います。それは彼が後残された短い人生の中で真澄が自分だけを見ていて欲しかったという願望からもきているのでしょう。ルシイは踊りを取るか、ルシイを取るか真澄に選択を迫ります。真澄は少しの間だけバレエを離れ、ルシイと暮らしはじめますがレオンと踊る筈のロビンス振付けの「牧神の午後」の事を忘れられず、戸惑いの中で生きます。

ルシイは真澄の恋人というだけで真澄に影響を与えた訳ではありません。彼は真澄にモダンバレエの素晴らしさを身を持って表現してくれます。彼は人間の感情を大事にします。例えば彼は真澄に、 「きみの踊りはたしかにきれいだけど、魂をゆさぶられない」と言います。それは彼女が身体と身体の触れ合いからくる電気のようなセクシャルな引力に身を委せて踊った事がないからです。官能的に、とでも言いますか。それはクラシックを学んでいた時の真澄のバレエに対しての「神聖」なという考えからきているのかもしれません。しかし、ルシイはモダンの根本を良く理解し、それを真澄に教える事ができる人です。ルシイは言います。「古典バレエの無駄な装飾をいっさい取りはなった人間本来の肉体の線と美にモダンバレエのテーマがあるんだよ。バレエは生きているダンサーの肉体の動きによって表現される瞬間芸術だからそのためにつねに矯正されみがきあげられどう動けばいちばん美しくみえるか計算しつくされて踊られる肉体に人々が魅せられないわけがない!」と。現実的でまた人間的な素直な考えだと思います。これ等を意識した踊りとそうではない踊りには大きな差があると思います。

そして、ルシイの一番説得力があるモダンの教えは、モーリス ベジャール振付けの「ボレロ」の再現です。真澄はまだモダンの一部分しかみていないのに、モダンには感情表現がないという思い込みは危険だとルシイは教えてくれます。 「ボレロ」の単調なリズムに象徴的な動きを音楽に合わせた踊りは音楽のリズムに人間の身体が反応する、モダンダンスの根本でもあります。それが人間の肉体で音楽を表現する事なのだと、真澄は初めて気付きます。気付くどころか、とんでもないショックを受けますが、それはルシイが初めて「ボレロ」を観た時に感じた事でもあるのです。ルシイは「これを初めてみた時はひどいショックでしばらく口がきけなかった。すごいとか、すばらしいとか、そんな生やさしいもんじゃないんだ。。。感動なんてもんじゃない、ひどいショックだった」と言います。

これには真澄の踊りの根本に繋がる点があります。真澄は白鳥を踊る時でも、人間の生々しい感情をテーマに踊ります。それは観客を混乱させます。何故か。観客は感動するだけではなく、動揺し、圧倒されるからです。普通、バレエを観に行く人はたいがい、感動を求めに行くのだと思いますが、真澄は人間が気付きたくない点を古典バレエに取り入れるので、単なる感動で観客は真澄に圧倒されるのではないのです。バレエを通してこんな解釈ができるのかと、驚異的でもあります。この真澄の持っている、もうすでに表現したであろう点を、それが自分の踊りのテーマであった事を、ルシイが目覚めさせてくれます。

ルシイは真澄を愛しているだけではなく、芸術を愛し、また踊りを深く愛した人です。でも、自分が後残された時間の中でどれだけ自分の考えや踊りに対して情熱を人に理解してもらうか、一人で悩んでいる思います。ダンサーとしてはレオンに劣らない個性を持ち、パートナー部門ではなくどちらかというと、ソリストとしての性質を持っているので余計「孤独」だったのではないでしょうか。真澄への愛情と共にバレエへの愛を真澄に伝統して欲しい、そんな気持ちがあったのではないでしょうか。真澄が一人で闘うのを見て、ルシイはこんな事を言います。「表面、強くみえる人間だってさ、だれもいないところで、ひとり泣いているかもしれない。たまらないよ、そんなの」と。それはルシイ自身の事ではないでしょうか。自分の病気の悪化の事をダンスパートナーのエドにさえ言わなかったルシイ。誰かに気付いて欲しいけれども、自分の自慢の足が腐植していっている事等、誰にも言いたくなかった事でしょう。ルシイはわたしを露骨に泣かせてくれます(笑)。

ルシイがいつかあんなに憧れたベジャールの元で自分の踊りをしたいという願いは叶わないのですが、亡くなる前にベジャールを見ます、自分が踊った会場の中で。ルシイは自分が最後の踊りを踊った後、舞台袖から観客席に座っているベジャールを見て涙を流します。もう二度と会えないであろうベジャールを見て。このシーンはいつ読んでも、涙がポロポロ毀れます。他人の為、身を持って踊るという事を教えたルシイ。真澄のような人間を助ける事でルシイは報われたのでしょうか。自分が一番孤独というものを痛い程判っているからこそ、真澄に一人で迷って欲しくなかったのでしょう。自分が生きた証拠が欲しくて無茶を言っても真澄に甘えたのでしょう。お互いの傷を舐め合う事は判っていても、ルシイが人に頼んだのはこれだけです、致命的な病気を抱えていていながら。

真澄のニューヨークでの長く、短い生活はルシイの死後終わります。また日本に戻りますが。。。さて次回は「SWAN」について最後の記事になります(長いなあ)。
posted by シルビア at 05:54| Comment(0) | TrackBack(0) | BOOKS | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年12月18日

SWAN Part 2

コンクールでの新たな出会い

真澄が「レ シルフィード」を踊るのに、レオンというダンスノーブルに割り当てられます。レオンは真澄と京極さんのパートナーを努めます。この時、意外な事に真澄が軽く「楽」に踊れるのですがこれが、飛翔や葵達を混乱させます。今まで真澄と踊った事の人は驚いたでしょう。何故なら真澄の踊りがステージで変化していくからです。踊り終わった後、真澄は最高の踊りができたと彼に伝えようとします。しかしレオンは「あんたにはあれが最高の踊りなのかい?」と返します。この言葉に真澄は混乱します。レオンはコンクールという場で緊張どころか、むしろその場の雰囲気を楽しんでいます。セックスアピールのあるキャラで、くそ真面目に真澄の言う「神聖なコンクール」等に因われず、踊りを楽しんだ、個性的でダイマミックな新種のダンサーが現われるのです。
彼と真澄が踊った時、何故真澄が「楽」に踊れたのか。それは真澄の踊るテンポと時と場合によって踊りが変化する柔軟性を彼が上手くコントロールできるからです。男性舞踊家はただ単なるバレリーナのサポートとして見られがちですが、相性が合えば調和の取れたパートナーシップを築きあげれます。それが真澄とレオンなのです。

レオンは真澄と同じで、人間性を重視した踊りを踊ります。「自我」と偽りのない本心、これ等がレオンの踊りの根本とスタイルです。レオンの偽りのない、「皆おたがいを高めあって、パートナーを尊重して踊るからだって!?冗談じゃない!誰だって腹の底にゃ貧欲な自我を持ってんだ!」と真澄の不意をつき、真澄はこれに対して激しく動揺します。真澄はこの「新種」なキャラに戸惑いもします。彼があまりにも真澄が自分で思い込んでいる「汚点」をそれは汚点ではなく、「己の本来の姿」だとはっきりと言うので、真澄は逃げようとします。此処でまた真澄が事実から逃げようとするのが見えます。自分は何故踊っているのか冷静に考えてみてはどうだとレオンは言っているとわたしは思います。レオンは、皆個人の自我の為に踊るとはっきりと言いますが、真澄はそれを素直に受け入れられません。それは真澄がバレエ、また踊りを理解していない未熟さ、そしてバレエを勘違いしている所から来ているとも思います。でもそれは全て真澄のせいではないような気がします。クラシックバレエは身体の曲線の美を重視しますし、またロマンチックバレエ(「ジセル」等)は表面の美ばかり重視されがちです。真澄は良い解釈はできても基礎のハンディに追い付くのに必死で「何故」わたしは踊るのか、何が彼女の向上心をかきたてているのか最も根本的な事を判っているようでまだこの時点では「理解」していません。要するに、自分なりの解釈ができても、「自己の表現」ができていないのです。

日本に居ると、バレエとは品のある、豊かな家庭で育った子供達が習う 「お稽古」 だと思われているのが良く判ります。変に美化されたものだとも感じられます。音楽とは違い、身体のプロポーションに取り付かれ易い芸術ですし、またバレエを習う殆どの子供達はバレエのヴィジュアルな固定観念に因われそれに忙しく、何故自分は踊る等、真剣に根本的な事を追求しないと思うのです。自分達をバレエの美化されたイメージにはめようとする傾向が日本は特にあると思います。それは自分達がバレエを習っているというだけの優越感から来ている部分もあると思います。それはバレエの「特別」さ、「品」、全てバレエの本来の姿から掛け離れたイメージに基ずいていると思います。真澄が、コンクールの事を「神聖」と呼ぶのと同じで、何処かで優越感を抱いていると思います。「お稽古」から離れ、自分の意志を持って踊っているなら何故その意志や意欲をむき出しにした踊りをしないのだとレオンは問い掛けていると思います。最もです(笑)。

コンクールでは真澄は銀賞を頂くのですが、コンクールの後天才少女の父、モクシモーヴァ氏(ボリショイの振付け氏)に是非モスクワに来て欲しいと招待をされるのですが、真澄は断わります。真澄はモスクワに行けばアレクセイもいる事だし、、、と考えるのですが、また彼を頼ってはいけないと自分に言い聞かせ、バランシンが率いるニューヨークシテイーバレエ団への招待を受け入れます。
レオンと一緒に行く事になります。

ニューヨークとモダンバレエ

バランシンはモダンダンスの鬼才です。クラシックをモダンを踊るにも、彼の作品は絶対に避けられないレペトワーではないでしょうか。それは何故か。彼の振付けは音楽を深く理解した踊りです。彼の振付けは踊りの為に音楽が存在するのではなくて、音楽に身を委せ、音楽を表現して初めて音楽と踊りが共存するとゆう哲学に基ずいています。音楽的な面から見てもバランシンの音楽の選択はとっても良いですし、その音楽をバレエを通して表現するのですから、素晴らしいコンセプトです。

初め、真澄はモダンバレエを根本的に誤解します。モダンバレエとは音楽を重視した、感情表現がない踊りだと思い込みます。それは、バランシンの教えを理解していないからです。通常、バランシンの振付けの哲学を理解するのに何も苦労はしないと思うのです。それは、普通観客の視線から観た「踊り」とは全て音楽と調和した身体と心の表現だからです。でも真澄は音楽に身体を委せる、クラシックバレエで学なんだ身体の曲線の「美」の技術をモダンに取り入れられません。そして感情表現さえできなくなるのです。それは真澄が自分でモダンバレエとはクラシックバレエのようにストーリーがない為、何処で感情表現をしていいのか判らなくなるからだと思います。知能レベルが大変低いように見えますが、踊りは知能だけでは「理解」できない事をわたしは知っています。身体で覚え、音楽に踊りを合せる、身体で感じる「感覚」が一番大事です。理屈は後で頭にしまい込めばいいのです。

でも何故真澄が長い時間を掛け、モダンバレエの誤解を解くのに時間を掛けるのかは、彼女が自分をどう表現していいのか判らないからです。クラシックバレエの教えで致命的なのは、いつも自分では誰かストーリーのキャラクターを演じるという事です。この教えの元で踊りを理解している人にいきなり自己の表現を音楽と調和した踊りから来るのだとどんなに理屈をこねても判る筈がないです。でも、わたしが思うに、クラシックバレエを踊るのにも自己の表現が必要とされると思います。特に同じキャラを色んな人が踊るのですから、良い解釈だけでは良い踊りはできないとわたしは考えます。そのキャラに「自分」がないと、どうやって激しい感情や細やかで脆い感情を「表現」するのですか。他人の気持ちを表現するのにはまず自分の表現を音楽を通して伝えるというのが根本にあるべきじゃないんですか、真澄さん!といつも突っ込みながら読むのですが、理解に苦しむ真澄の思考もわたしは判らないでもないのです。

バランシンが教えるバレエは自分が何故踊るのかという考えに復するので、頭で理解しようとすると非常に難しいです。話は少し逸れますが。。。わたしが敬愛し、崇めるバレエダンサーことマヤ プリセツカヤは今でもこう言います。「わたしは幼い頃、道で聞く音楽が大好きでそれを表現できるのは踊りだけだったから踊りたかったのですよ」と。彼女のように、生まれながらの舞踊家ならモダンを踊るのに何も苦労はしないでしょう。根本的な自己の欲、踊る目的が全て最初から自分が一番理解している舞踊家はどんな踊りもこなせると思っています。マヤの場合、踊りと音楽が深く関係しています。でも、彼女のような才能と何処でも通用する「個性」を天与の才として持って生まれた舞踊家は何人いるのでしょうか。ましてや真澄のように基礎は他のダンサーから遅れを取って叩き上げられ、ただ「無心に踊る」という事が彼女の今の段階では限界、最高であるとなると、身体が素直に音楽に反応するという根本的な事に気付くのに時間が掛かって当り前だと考えた方が自然だと思います。

レオンは真澄のあらゆる欠点に気付きながら、黙って彼女が自分で自分を見詰め直すのを待ちます、何も言わずに。こればかりは真澄自身が身を持って体験して覚えないといけない事だと判っているからです。真澄はダンサーとして甘い考えを持っているので何かあると、誰かに自分の問題を解決してもらおうとします。最も人間的でありますが、自立した大人だとは言えません。でもわたしが真澄が凄いと思うのはどんなに迷っても踊る事を諦めないという所です。人に迷い、それでも自分はいつか自分の足で立てる、そして明日にはもっと成長した自分がいる筈、という信念は舞踊家としだけではなく人間の器量として尊重されるべきだと思います。ただ、自分の裸の心と向き合って、彼女の踊りに対する考え、意見や感情を意識して踊れないのは自分を否定し、奥底で変に自分を甘やかしているからだと思います。これはエンターテイナーとしての何よりも一番の欠陥です。

自分を賞賛訳ではありませんが、わたしが声楽を学んでいた時、誉められたのはわたしの根性だけではありませんでした。自分の欠点を先生から指摘された次のレッスンには直していたか、成長していたからです。先生はそれはわたしが勇気のある自分に対する厳しさでもあり、素直さでもあるとおっしゃいました。それ等はどんな気持ちにも勝り、自信に繋がる事だとわたしは知っていましたし、そんなに頑張って手に入れる技術でもありませんでした。でも自分がそこまで出来たのは、何時も唄や踊りは「自分の物である」とはっきりした目的、意欲、考えがあったからでしょう。唄う事や踊る事で何かを変えたいという意欲ではなく、自分が万人から認められた一人の芸術家になりたい。そんな願いが常にありました。それ等の気持ちはわたしが常にどんなに孤独と闘おうと自分の本心と向き合い、自分がしたい事が自分が心から楽しむ事だからして「当り前」の事をしていたからです。
しかし真澄の場合、本当に自分の力で自分を信じ、自分が自分に出来る「当り前」な事を全てしたでしょうか。50/50じゃないでしょうか。無意識的には自分の本心を判っていそうで、理解できない中途半端な気持ちでいるのは自分がいつまでも奥底の自分を否定していたからですし、また人間としての普通経験する事、考える事から離れていたからではないでしょうか。何事でもそうですが、ただ何かに没頭するだけでは成功を掴めませんよね。踊るにしても生活だってしなくていけないですし、また恋に落ちたり、踊り、踊りだけでは踊る心を掴めないとわたしは思います。

レオンが黙って彼女の成長を待っていたのは、もしニューヨークで自分の「悪夢」と向き合い、自己の表現をし、観客から認められれば真澄は天才少女より遥かに説得力のある、真澄にしかできない踊りを完成させる自信を手に入れれるいい機会だと思ったからでしょう。その完成されるであろう真澄の能力に惚れ込み、彼女でしか自分のパートナーを努められないと思ったからこそ彼女に自分で自分を暴いて欲しかったのだと思います。だから彼女に彼とニューヨークに行くようにと説得したのです。

余談ですが、わたしはレオンのような男性が理想なので、「こら、真澄!レオン様をもっと労りなはれ!」とブツブツ文句を言いながら読みます(危)。でわ、次は真澄がニューヨークで出会う、大変個性的で魅力のあるキャラ達との交流から生まれる真澄の成長を次回、語ります(早よ終われや/笑)。
posted by シルビア at 05:49| Comment(2) | TrackBack(0) | BOOKS | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年12月14日

SWAN Part 1

swan.jpg
SWAN - 白鳥 -

有吉京子(著),秋田文庫





これは漫画です。
本ではありません(笑)。
バレエシーズンも近付いている事ですし、色んな意味で物凄いインパクトがあるバレエ漫画なので紹介したいと思います。多分読んだ方は沢山いらっしゃると思いますが、わたしのレヴユーも含め偏った解説擬きな事でもしようかと思います(笑)

最近ベンモントがやむを得なくこの漫画を買ったにも関わらず(わたしのせいです、この漫画をこっちに持ってきてしまいました/笑)、彼女はやはり「アラベスク」の方を好むみたいですが、わたしは少し違う意見を持っています。確かにベンモントが言っている事に同意できるのですが、この漫画の素晴らしさをシルビアさんが語ります。バレエだけに限らず、ミュージカルやエンターテイメント等に興味がある方は是非この記事を読んでみて下さい。

あらすじ
「SWAN」は、所謂舞踊家の精神と肉体の葛藤を真澄という主人公を通して読者に伝えている漫画です。真澄は舞踊家として根本的な欠点を抱えています。彼女の基礎の致命的な欠陥を抱えながらその上に高度なテクニックを重ねようとしますが、それが一番の問題に繋がります。これが彼女のテクカルな欠陥ですが、それに関連して彼女の舞踊家としての精神的な弱さと未熟さからプロのバレリーナ
に成長する事がストーリーの本題です。彼女の欠点を克服できる筈がないと皆否定するのですが、真澄はセルゲイエフと言うボリショイの現役の舞踊家の指導の元で基礎を一から叩きあげられます。セルゲイエフ先生(アレクセイ)は真澄の欠点を知りながら、それでも彼女の「何かを感じさせられる踊り」に魅かれます。真澄は自分に欠陥があろうと、アレクセイに何度も指導を頼み、ある所まで成長するのですが、外的な問題にかき回されながら彼女は長い時間を掛けて成長します。付け加えて、この漫画は真澄の成長の過程に彼女が出会う色んな舞踊家の性質、経験等が描がかれているので、読みがいがあるとわたしは思います。

真澄と闘いの始まり
わたしが考える真澄の舞踊家としての器量は凄いと思います。まず、わたしが何年にも亙って踊っていた為、彼女のキャラクターの描写に同感できる事が沢山あると思います。真澄の凄い所は固定観念に因われないという事です。良い例として、真澄は外的な事に敏感に反応してまた影響され易い人物でもあります。それは芸術家として持って生まれた良い性質です。何故なら、外的な事に影響され易
いと言う事は、指導や新しい考えに順応性があり、吸収も早いという事です。また新しい事を受け止められるというメリットがあります。彼女の「白鳥の湖」の解釈は観客に感動だけではなく、白鳥が人間であった為感じる感情を非常に人間的に解釈した為、感動どころか官女の意外で説得力のある踊りに圧倒されます。

でも真澄の根本的なテクニカルな基礎の欠陥より、彼女にはもっと大きな問題があると思います。わたしは根本的な基礎を一から叩きあげられるという事は何も悪い事ではないと思っています。むしろ、見過ごされ易い基礎を一から叩きあげられるのには大きなメリットがあります。バレエのテクニカルな根本を見詰め直すという事はバレリーナの精神の安定にも繋がります。しかし、皆から一歩も二歩も遅れて基礎を直すという事は逆に焦りも関わってくるという事です。性格にもよるのですが、もっと上手くなりたいという意欲があるなら余計に焦り、自分を追い込むと思います。要は自己の精神のコントロールが必要とされるという事です。これはまだ20にも成長していない少女には酷く厳しい課題です。

わたしがこの漫画を読んでいて感じたのは、精神のコントロールどころか、真澄は自分の精神的な苦痛にまともに向き合えないと言う事です。葛藤とは自分と向き合ってからこそ初めて成り立つものですが、真澄は今にも崩れそうな精神の上にそれ以上の挑戦に挑み、何度も挫折します。彼女のテクニカルな欠陥(例えば基礎からずれたところに高度なテクニックを積み上げるところ)は彼女の精神のアン
バランスを象徴していると思います。有吉さんはこれを非常に上手く描いていると思います。それでも真澄は出来る所まで昇り詰め、読者としてもホッとした頃、この世の者とは思えない程、全く違うレベルの天才バレエダンサーが登場します。真澄は彼女のステージを観て耳が聞こえなくなります。それはその少女のパフォーマンスが驚異だからではなくて、真澄が自分が今まで積み重ねてきた努力さえかき消されるかのような、何かを失うような恐怖感からきているものだと思います。自分を失うような、これからまた長い、血を吐くような訓練がまた待っているのか、今までの自分の努力は何だったのか、そして、彼女がいる所まで昇り詰める事が真澄の人生な中で出来るのかそんな恐怖や不安からきていると思います。もし真澄が意欲的なダンサーでなかったらそんな恐怖は感じないと思います。そ
して、もしこれがテクニカルな問題だけなのなら真澄はまだ堪えられたのだと思います。しかし、この天才少女はテクニックは真澄や彼女が今まで出会って来たバレリーナの素質やタレントを遥かに超絶しただけではなく、彼女は絵本から飛び出たかのような、皆がバレリーナから期待する容姿を備え、観ている者に夢を見ているようかの錯覚さえ起こせる全くレベルの違うバレリーナなのです。驚異的な精神の透明さとでも言いますか、彼女は究極の白鳥の化身でさえあると思います。真澄の耳が聞こえなくなった事は表面的にはアレクセイを失ってしまうかもしれないという恐怖感からきているように思えますが、事態はもっと酷いようにわたしは思えます。アレクセイは元々ボリショイで天才少女のコーチを努めていた訳なので、ステージで彼女のパートナーを努めるのに何もおかしい事はないのです。ですが、二人を観た真澄は自分が今まで一番の頼りにしていたアレクセイを失うという恐怖感に駆られ、耳が聞こえなくなるという解釈が多分論理的でしょう。

しかし何が真澄の恐怖感にそれ程寄与したのか。わたしが解釈するに、それは真澄が今のままでは駄目になるという危機感、それが自分が舞踊家としての不十分さだという事に気付いていながら向き合う勇気さえなく、またその恐怖を乗り越える事が出来るのかさえ判らなくなって来たからだと思います。また、基礎的に遅れを取った真澄には見たくない現実だったのでしょう。そして天才少女のあまりにも美しい踊りに自分が魅了された事実さえ受け止められないという事も彼女の不安に繋がっていると思います。これ等のハードルが真澄のバレリーナとしての意識の機転となります。

コンクールとバレエ
真澄が尊敬する非常に個性的で美しい日本人バレーダンサー、京極小夜子、ダンスノーブルの飛翔と葵、各国から集められた才能に恵まれたダンサー達の大コンクールが漫画の途中で行なわれます。このコンクールでは個人、パートナーとの相性とその結果が試されるのですが、真澄はまたもがきます。外的な事と自分の感情と闘いながら、コンクールの中で真澄の踊りに変化が訪れます。そのバレエは「愛の伝説」。譲れるような愛は本当の愛ではないと、誰を敵に回しても、他人を傷付けても愛する二人を邪魔するものは何もないのだと、迷った二人が達する情熱的な愛の踊りです。その踊りに真澄の感情が反映され、精神と肉体の限界を越え観客に痛感させる説得力のある踊りを踊ります。真澄が自分の感情に溺れ、踊れないと思っていた時に踊れた踊りから得た確かな観客からの容認から彼女は
自信を得ます。話は少し逸れますが、わたしは今まで観てきた沢山のバレエの中で、ダンサーが「踊らされている、若しくは踊りの意味を理解できていない」という現象に駆れるのを見て大変腹立たしい思いをした事があります。人間性と魂を込めた踊りはクラシックバレエだけではなく、モダンバレエにも共通する、舞踊の根本にある大事な要素です。確かに気持ちだけでは踊れませんし、表現もできません。しかし、どんなに高度なテクニックを持っていようが人の心を揺さぶるような踊りができないようでは舞踊家として失格だと思います。その心を揺さぶるような踊りは何処から来るのか。それは個人の葛藤、精神との闘い、また他のダンサー達との競争から得る喜びや挫折感、全て身体と精神で体験する事を自分の足の先から頭まで、全身全霊で踊る踊りが人の心を揺さぶるのだと思います。精神の限界を
越え、ただ「無心」に音楽に身を委せた踊りは人の心を動かすとわたしは思っています。それを真澄は天才少女と踊る「シルフィード」で実現します。同じステージで初めて同時に対決する恐怖感、最高潮に達した精神の限界を越え、真澄は天才少女の精神の透明さとはまた違うきらめいた精神と「美」を表現します。この時点から天才少女に変化が訪れます。他人を意識した事のない彼女が真澄の凄まじい存在感に今度は彼女が動揺されステージの上で気を散乱させられます。この時点から真澄と天才少女の本当の闘いが始まります。これまでは真澄が劣っていただけだったのですが、同じレベルで相互に影響し合うようになります。コンクールを通して競争に負け、挫折していくバレリーナ達が描かれていますが、バレエの世界は痛い程厳しいものだと気付かされます。真澄はどんなにもがいて苦しんでも、結局良い所までいくので、他のダンサーからしたら妬みの対象かもしれません。例えば愛する恋人まで捨て、バレエだけ没頭するイギリス人のシドニーは強烈な情熱と凄まじい存在感を舞台で発揮できるダンサーなのですが、運悪く、パートナー部門でパートナーの失敗の結果、敗退します。シドニーは自分が今までバレエの為に沢山のものを「犠牲」にしたという意識が強くあるので余計に可哀相です。バレエの為に何を犠牲にしたのかという考えが間違っているとかではなく、シドニー自身がそう思っているのならそれは彼女の踊りへの信念です。人は何時でも真澄のように純粋な気持ちの為に踊る訳ではありません。踊りしかないから踊る人もいます。他に喝采とステイタスの為に踊る人もいます。要は踊るという根本に違うアプローチがあっても、皆各々自分の未熟さと闘い、明日にはもっと成長したダンサーになるのだという願いを込めて踊るのではなかという事です。それでも想像を絶っする厳しい世界な為に挫折、コンクールでの敗退等を経験し、消えていく人も少なくはないです。

踊る楽しさだけで自分の踊りが認められ、それだけで踊れるならどんなに幸せな事でしょう。でも、どんなに辛くても踊りを色んな形で愛しているなら、無心に踊る楽しさを忘れては「踊り」にはならないと思います。
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2004年12月11日

ナイフ

今晩は!
最近忙し過ぎて日記を更新できずにいました。うつ日記で心配された友達、心配かけてごめんなさいね。ただあれから1週間程落ち込んでいました。落ち込むと言うより、迷って、考えたくない事を深く考えていました。

掲示板にも書きましたが、今日公式に一学期が終りました。何とも長いようで短かかったような、不思議な一学期でした。毎日が本のページをめくるかのように過ぎて行き、そのスピードに付ていくのに大変でしたが、提出されるべきものは全て提出し、昨日の卒論のプレゼンでは最高得点を頂きました。涙が出そうでした。全てがむくわれたような、そんな感じがして、嬉しくて嬉しくて、昨日は良く眠れました。こんなに良く眠れたのはあまりにも久しぶりでした。

卒論の担当の教授が「おめでとう、よくここまで来たね」と祝って下さいました。本当に自分が今まで頑張ってきた事がむくわれるとは良い事ですね。特にわたしはどんなに頑張っても辿り付けない目標があるのだと自虐的にさえ思っていたので、現実はそんなに悪くなかった事に感謝するばかりです。

でも、この限られたわたしが自ら選んだ厳しい「道」はナイフで切り裂かれた道でもありました。そして後数ヶ月はそれが繰り返される事でしょう。友達から自分を切り離した世界、趣味だったライブ通いとの別れ、全て完全に切り離された訳ではないのですけれども、離れている事には間違いのない、辛い時期です。もっと自制しなくてはいけなくなる毎日が怖くて仕方ない時があります。何事も一度
に全てをこなしたり、得る事はできない事は判っています。だから、辛くなった時、友達に話すというのが普通なのでしょう。それでも、友達が大変な時、自分が大変な時、「話す」と言う事から自分を切り裂かなくては時間がないのです。物理的な問題なのです。何もわたしの道徳の問題ではないのです。

11月28日でわたしが大好きなグラゼロこと、GRAND ZEROが解散しました。親友がわたしの願いを連れ、ライブを観たと、感想を聞かせてくれましたが、電話を切った後グラゼロの曲を聞いて涙が止りませでした。大好きなKAZUKIさんの声、楽器隊の演奏、全て今まで生で観てきたもの達が自分の手から毀れてしまいそうで、たまらなかったです。

わたしが体験している事が何も「犠牲」で成り立っているとは言えません。それはわたしがこの道を自分で決め、進もうと決めたからです。自分がしている事に誇りを持っていますし、今のわたしの人生はこれだけしかないとも思っています。それだけ、ギリギリの気持ちで挑んでいるという事でしょうね。でも、気持ちを自制させるのは所謂犠牲ではないでしょうか。ただ、わたしの場合、悲観的では
ないのです。わたしはこれだけあれこれを犠牲にしているから、こうであるべきだとかではなくて、生きて行く上での条件に今気付いたという事なのです。確かに、グラゼロや、ライブに行けなくなった事は単純に悲しい事です。でも、気付きたくなかった事に気付いたといいますか、わたしの病気も関係しているのでしょうね。これから生きていくのにどれだけ自分の気持ちを我慢するのか考えただけ
でも気が遠くなります。

こちらでの友達はわたしが辛い時、「辛い」と言うのはいいけれども、その理由を言わず、何日か自分の殻に閉じ篭る事が心配だと言います。確かにそうします。でも、そうでもしないと、前に進めないのです。昔、人に頼ってろくでもない経験をしたと、いつも愚痴を言っていましたが、人に頼りだすとわたしの場合、全てを委せてしまいます。責任を、とかではなくその人をずっと信頼してしまうか
らです。そして少しでもわたしの期待が裏切られると落ち込むのです。これは、わたしの我侭ではないでしょうか。人を勝手に自分が好きな様に頼って、夢のような期待をして裏切られると考えるのはあまりにも子供過ぎますし、まずは自分でどうにかできる事を全てしてから人の手を借りたりするのが人と言うものでしょう。最近そうやって自分に言い聞かせます。わたしは昔、自分が自分に厳しいが
為に人に対して大変大きな期待を持っていました。でも、もうそんな事を捨ててしまった方が良いのではないか、そう思っています。でもだからと言って友達が頼っても良いよ、と言うのを拒否する訳でもないです。ただ、自分が思う友達のサポートと実際のサポートにギャップがないよう、ちゃんと現実を見るように心掛けています。

自分の感情を大きく、そして情熱を持って生まれた人間には辛い事です。でも、生きる上での知恵と性質とは関係がないです。自分の勝手な感傷や多感は自分の中で消化してしまうしかないと思います。それを人にぶつけ、追求したり、人に自分の葛藤を解決してもらうという期待は大きな勘違いだと今、しみじみと感じています。

ナイフで自分を切り裂いて、新しい自分を見付けるのも悪くはない、ただ変化に調節するのにはまだまだ時間が掛る、それだけなのです。。。

でも、今幸せです。色々とありますが、前へ、前へと、少しずつですが、昔のわたしの力を借りて進んでいます。
posted by シルビア at 06:31| Comment(1) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年12月04日

ROCK ON, TAKUI!

卓ちゃんの新しいアルバム、「VIVAROCK」のレポをアップしようとずっと考えてま
したが、大分遅くなりました(汗)。シルビアさんはこのアルバムが大好きです。
まず曲々を曲順に紹介したいと思います。

嘆くも蒼い地球で
きみは見て見ぬふりをしてしまうのかい?現代の悲劇を

この曲はアルバムのスタートとして、次の曲がどんな曲になるか不思議に期待できる1曲です。でもこの曲は楽曲的に他の曲とは異なると言えば過言かもしれませんが、浮き立っています。悪い意味ではなく、今回のアルバムのコンセプトの起源がこの曲に関わっていると思います。アレンジもとっても素敵です。

ROCK THE FUTURE
遊ぶ場所がない少年と心でキャッチボールできるような人間でいられるかい?

正にロックな1曲です。卓ちゃんはいつもロックの最も根本的な所を楽曲的にも歌詞にも反映できる非常に頭の良いロッカーだと思います。その根本的な事とは具体的に言いますと、何時も政治的にではなく、世間に対しての疑問をハートから問い掛けていると言う事です。考えさせられる1曲です。また、次の曲に素晴しい程繋げます。

BE HAPPY
「こんなはずじゃなかった」と昔話に花を咲かすような奴だけにはなりたくない

楽曲的にも歌詞の内容としてもいまいち同感できない1曲です、残念ながら。元気な時に聞いても、辛いです(笑)。卓ちゃん、元気すぎるよ!?何言ってるの!?落ち着きなよ、卓ちゃん!と、シルビアさんはツッコミを入れてしまいます。でも歌詞はそう嫌いでもないです。楽曲的に前の曲から旨く繋いでいるので残念だと思うのですが、こればっかりは好きか嫌いかに別れると思います。

I'M SICK SO BLUE
着メロに忙しい。。。。。。現代人

大好きな1曲です。反抗精神をかき立てくれます。今の社会、特に日本の異常なまでの固定観念に縛られた人の事を唄っているのですが、それが自分じゃないの?と、問い掛けてきます。楽曲的に、アップテンポですが、曲の途中で、「オイ、現代人、come on!」と遊び感覚満載の歌です。それが、歌詞の皮肉さを物語っていると思います。是非是非聞いてみてください。

LOVE IS BLIND

恋焦がれたら誰もがLOVE IS BLIND

表面的には世界情勢や政治なんて愛する人と比べるとノンセンスだ!と唄っているみたいですが、わたしはちょっと違うと思います。愛は素晴らしいけれども、盲目にもなり、コントロールを失う事もあると訴えいるのではないでしょうか。何よりも愛が一番だと思うのは自然かもしれません。皆そう思う事があるのだと、気持をストレートにぶつけていまが、愛が一番大切なのかしら、と考えてしまいます。それはわたしが捻くれているからかもしれません。この曲はもっと素直に受け止めるべきかもしれませんが、考えてしまいます(笑)。この曲辺りから卓ちゃんのアルバムのコンセプトに「転回」があると思います。人間の本心や気持ちを著わにしているとでも言いますか。

鼓動
もし戻れる場所がぼくらにあったならば 振り返ってしまうだろう 過去の残像に


人は鼓動が鳴り続く限り、道に迷い、自己の進化の為、犠牲にしたくない大切な物を犠牲にし、そして何時も勇気を持ち前に進むしかない、そう唄っていると思います。でも人はもし道が2つあったとしても渡りたくない時があるというわたしにとっては意味が深い曲です。でも卓ちゃんの素晴らしい所は嘘何一つなく、人間が一度は考える事を曲の大気に委せて純粋でストレートな気持ちを訴えられるという事です。

晩秋の都
一昨日と明後日の間には四万年の距離があるという魅惑の王国へ

わたしがこのアルバムで一番好きな曲です。何とも意味深い曲ですが、そうでもないような気がします。宗教と同じように、人は存在しない聖地に辿りつきたいという願いがあるのではないでしょうか。そこに行けば辛さを和らげられ、永遠の時間を過ごせるという人が永遠に憧れる「都」の唄です。人は弱いから夢を見るとわたしは思います。だから卓ちゃんは曲の最後に「か弱き勇者達よ、迷う事なかれ」と唄うのではないでしょうか。どんなに迷い、夢を見ても、わたし達は勇者なのだと、わたし達は死に至るまで永遠に聖地を探し求め、最終的には存在しない都より、人間が辿り付く場所の方が確かな聖地なのだと、そう伝えていると感じます。そして、何よりも美しい曲です、楽曲的に。

蜃気楼
旅の終わりを知りたくて人は蜃気楼に消える

この曲は前曲の「答え」のような、コンセプトを非常に旨く繋いだ曲だと思います。大好きで仕方のない曲です。前曲と同じように、人はどんなに犠牲を払ってでも、自分の信じる物を確かめたくて、生きている証拠をの求め、聖地に行くのだと唄っています。この聖地とは人間がいつか辿り付くであろう最終点なのだとわたしは解釈します。でもそこに辿り付くには気の遠くなるような闘いを潜り抜けてからであって、それでこそ人はその長い旅を終りたくて蜃気楼に消えると、そう思わずにはいられない曲です。

CRAZY MORE CRAZY
もうちょい占いとか運勢信じなきゃ駄目すか?

とってもアップテンポな1曲です。人生、うまくいかない時、人は占いや神様に頼るべきなのでしょうか、それともただ単に運が悪いだけなのでしょうか。そういうコンセプトに元ずいた曲です。卓ちゃんが得意とする言葉遊びに隠れた人の本心等語っていると思います。あまりにも本当過ぎてニヤリと微笑してしまう曲です。

DO IT BOY AND GIRLS
君が生きるドラマの主人公は君だろう?

シルビアさんの一日はこの曲デ始まる事ガ多いです(笑)。元気が出る一番です。反抗精神をあおられる曲ではないでしょうか。大好きなフレーズで、「元カノ 元カレが愛せない? 傷付くのが怖くて愛せない? なのに 月9ドラマみたいな恋がしたいだ? 寝言は寝て言え」というのがありますが、本当やワ、と微笑してしまいます、うなずきながら。

言葉に出来ない
紙にも書けない想いがここにあるよ

リゾートを思い出させるような一曲。好き人に気持ちをストレートにぶつけるよりか、大切に想うからこそ言葉にできないという素敵な、でも可愛いラブソング。そんなちょっぴり恥ずかしいような気持ちを伝えてくれる良い曲だと思います。ええ。


福岡
亡き父よ、母よ、兄よこの声が届いてるだろうか

この曲を初めて聞いた時は涙が止りませんでした。でも、静かな感動といいますか、卓ちゃんの事を想うと自然と涙が流れます。卓ちゃんのバックグランドを知っていなくても、この曲で判ると思います。このアルバムのエンディングに最も最適なのではないでしょうか。

このアルバムは全体的にコンセプトが旨く一つ一つ繋がった非常に完成度が高いアルバムだと思います。今までで一番とかではなくて、進化した卓ちゃんの今だからこそ出来る最高の音楽、ロックだと思っています。楽曲的にも、統一感がありますし、またギターを重視した、オーソドックスなロックでもあり、また卓ちゃんにしかできないスタイルがまた完成したと思います。是非機会があれば聞いて
みてください。
posted by シルビア at 16:16| Comment(0) | TrackBack(0) | MUSIC | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年11月26日

記憶街道、独り。。。

精神病を患っている方達へ。

「貴女の病気は薬からきているものだとは思いませんか?」

こんな事をドクターと名乗る人から聞いた事がありますか。
わたしは昨日初めて聞きました。

事は、心霊体験とも言える体験から始まりました。長い間こうゆう体験をしていなかったのでびっくりしたものの、生活にあまり大きな支障はなかったのでいつものように勉強をする毎日を過ごしていました。多分、過度の疲れからきたのでしょう、金縛りと言った方が正しいかもしれません。最近ぐっすり眠る事も少なくなっていましたし。ただ、二日間身体が重かったので教授に会いに行った時に体験を説明すると、わたしの学問内で問題が生じる前に、医学的なアドバイスを受けてみないかとおっしゃりました。一度だけ体験した事なら兎も角、三度も体験している事ならちゃんと医学的に診てもらうのも一つの解決方かもしれない、と、そういう見方からのアドバイスでした。

わたしは大学で提出した論文や出席日数等に、うつが係わっていた事も含めて、支障と言いますか、問題が生じた事があったのでその支障をできるだけ軽減できる学界での個人の詳細情報を収集する弁護人に近況を伝える個人的任務があります。今回もできるだけ自分をサポートできるように医学的(或は専門的)なアドバイスを受けたという証拠を提出しなければいけなかった為と、後は個人的に聞きたい事があったので昨日ドクターに会いに行きました。

何故か月曜日の夜、一睡もできなかった為とわたしの講義とゼミが終るのが5時過ぎ(わたしは一睡もできなかった次の日には夜まで寝ないようにします)だったので、ドクターに会ったのは6時近くでした。

先程言った「個人的な事」とは、わたしのうつと薬の副作用でした。日本に居る時から起こっていた症状なのですが、昔の事が想い出せなくなってきています。それは友達の事、自分がした事、勉強の事、色んな視点から見てでの記憶です。友達に、「あの時こんなんやったよね」やら、普通に過去の事を話されると少し時間をかけて「そんな事あったっけ」と考えてしまいます。適当に「ああ、なんかあったな」と思うと「あまり詳しくは憶えてはないけど、そんな事もあったけ」とその時はそうやって凌げるのですが、一人になると全く想いだせない時が殆どです。ただ、「何かが欠けている」と判っているので想い出そうと頑張るのです。


こんな症状はもしかしてわたしの精神からなの、それとも薬の副作用からなの?そんな疑問があったので早めにドクターに会いたかったのです。何か説明されたら気が落着くかもしれないと思いながら。

しかし、そんな期待や思いも裏切るミーテイングになりました。

うつと薬の話になった時、顔を傾げながらわたしに言いました。

「貴女は自分がうつ病だと思いますか?」


こんな質問から始まりました。
「わたしの視点から見ると、貴女のような人は性格からしてうつ病になりにくいと思うのですが。。。」

まるで裁判にかけられているかのような感じがしました。

わたしは、「では、ドクターはうつ病を性格から判断されておられるのですね?」と訊ねると、「それもありますが、年齢からきているものだとも思っています」。と、はっきり言いました。わたしはドクターと名乗る方が何故自分の個人的な「考え」からこの話にアプローチしているのか、理解に苦しみました。その上、個人的な問題なだけに、何故今になってこういう質問をされているのかさっぱりでした。

「年齢からくるものとは詳しく言うと、つまりどうゆう事なのですか?」と、自分のプライドと正気を守るかのようにこちらからも詳しい事を訊ねました。「つまりですね、貴女が公式にうつ病と診断され、治療し初めたのは貴女が19歳の時ですね?、それは年齢的に言うと一番難しい時です。彼氏や友達の事、勉強や色んな事に挾まれて生きる年齢です。感情に流れる年齢でもあります。こういった、普通で考えても難しい年齢に感情的に落ち込だのではないかとわたしは考えています」。

自分の耳から聞こえてくる言葉が信じられませんでした。ドクターは、うつ病が性格的なものと断言しただけではなく、年齢に関わる「感情」の浮き沈みで判断されたのです。確かに一般論で言う、うつとは感情の浮き沈みからくるものです。でも、うつ病と診断され、抗うつ剤を必要とするうつは
また違います。感情がもし身体を支配しているならばその感情の縺れや、それ等に影響される個人の考えや脳の働き等、考慮されるべき事は沢山あります。だから酷いうつにかかった人は何が原因なのかも判らなくなり、ただ確なのは身体が重くなり何もする気がなくなるものだと思っています。自分の体験が一番の証拠です。

わたしは17から18にかけて母の知らない時間に故郷、チェスターでドクターに会いに行き、「呼吸困難で苦しい」と症状を訴えては自分でも何がなんだか判らないまま、ドクターの処方する少ない量の精神安定剤を飲んでいました。その頃はパニックアッタクが何かとか、詳しい事は全く知りもしませんでした。確かなのは、一日が非常に長く感じていたのと、朝起きるのに大変だったという事です。何か嫌な事があると、息をするのが苦しいだけではなく、このままだと死ぬかもという恐怖感を感じていました。

大学に進み、新しい場所、人、色んな事に出会い、家族から遠く離れた場所で新しい生活が始まった頃、わたしの生活を邪魔する人物が一人いました。それはわたしと同じ部屋をシェアする同居人でした。彼女の酷く身勝手な暴言と行動に絶望さえ感じ、それからの生活にも何も期待できず、でも諦めるなは良くないと自分に言い聞かせ、前に進もうとしてた頃わたしは2年生になっていました。1年生の後の長い夏を独り、バイトと勉強の中で暮らしこれからは仲の良い人達と暮らすといった少しの希望の中でさえもどこか絶望的な想いがありました。2年生が始まる少し前に過度の疲れとプライベートで嫌な想いをしながら考えた事は、死ぬ他に何もありませんでした。バイトを二つ掛持ちしていて、移動中にパニックになり何度も倒れながらもその一日は終わり、キッチンにあった野菜と果物を切る包丁で手首を切り、睡眠薬と鎮痛剤を大量に飲んで初めて世界が落ち着いたかのような体験をし、深い眠りに入っていました。この頃、わたしは19歳で不安神経症を患っていました。自殺未遂の後は何度も遠い精神科に通い、安定剤、睡眠薬を処方されていたのだと思います。ここ辺りの記憶が詳しくありません。通っていた精神科が今の記憶ではどう行ったら行けるのか、全く思い出せません。2年生の一学期も虚しく過ぎ、日々が過ぎて行く程睡眠傷害は酷くなり、挙げ句の果てには講義にもバイトにも行けなくなり、ベッドでの生活が始まりました。

この時、自分がどんな感情でどうやって生きていたか想い出せません。酷かったような、そんなに酷くなかったような。。。
精神科に行くのも苦痛に感じ出した時、自殺未遂と全てが繋がっていたのでしょうね、正式に臨床的うつと診断されすぐにでも精神科に入院するようにと言われたのを少し憶えています。それからどうやって独りで入院したか、後で友達の話で聞く以外、記憶が全くないです。憶えているのは、入院するなり、先が尖った物と持参していた薬は全て没収されたのと、強烈な精神安定剤で略三日熟睡していたという事です。

いつの間にか母がベッドの横に座っていました。
あまり会話をしたのを憶えていませんが、喧嘩をしていたと思います。
わたしが病気にもなっているのに、こんなんだから病気になるのだとか、酷い分析の仕方をされたと思います。そんな酷い会話もただ「酷かった」としか記憶していません。まるで自分と世界が全く別の世界に感じられ、どうやったら完璧に死ねるかを永遠に考えていました。20歳の誕生日を迎え4ヶ月が経っていました。

色んな絶望感の中で、一つだけ希望がありました。それは大学から出る奨学金の中でわたしが古代史の専門としていたトルコとシリアに行く旅でした。4週間にも亙るこの旅は歴史家としての器量を試されるだけではなく、個人の限られた時間中での情報処理、情報収集、生存と厳しい条件の元で自分と限りない多様性にかけた、わたしとっては大事な旅でした。その旅をきっかっけに、病気も治るのではないかと、病気を否定していたかのような自分もいました。もう少し入院した方がいいと言われても、もうすぐ迫りくるチャンスに何故か危機感さえ感じていました。今の世界情勢を見ればその危機感が何であったのか、よく判ります。それでなくとも、一度シリアに足を踏み入れた者は後最低10年はイラクには入国できないとゆう規定がありましたから。今ではもう一度行こうとしていたシリアに行く事さえ、許されません。兎も角わたしは、バビロニアとアッシリアかヒッタイト帝国の間で悩みましたが、昔からの憧れでもあった鉄を発見した謎にも近い文明、ヒッタイト帝国の都、トルコとヒッタイトと色んな文明が繋がり、歴史に形として残ったシリアに行く事になりました。

気が遠くなるような長い旅でした。
でもその中で、長い事話さなかったフランス語とドイツ語も新ししく覚えたトルコ語とアラブ語に助けられ、色んな現地の人達と触れ合いながら旅を満喫できました。うつと睡眠傷害にも負ける事なく、毎日考古学が発掘した沢山の古器物やレリーフの中で絵と設計を画いては歴史書とガイドブックを読み漁っていたのを憶えています。
辛く感じた病気と、結婚を約束していた人との破局さえ忘れてしまいそうな、初めて自分の為にしたこの旅はどんな約束より頼れると思いました。

楽しい旅もすぐ終り、また勉強と病気と向き会った生活が待っていました。
現実は想像を絶するものでした。そんな中、また色んな事が起こり、また色んな人がわたしの前から去って行きました。2年生はどうにか生き延びれました。ただ、わたしの誇りでもある旅の記録、ヒッタイット帝国と鉄、そして古器品を照らし合わせた論文、全てが最低の点数でした。人生初めての54%。自分の病気とこれは関係するのか、それともわたしの学術に欠陥があったのか、自分で自分
を責めては答えが遠くなり、自分が信じていた学術さえ衰えたかのように思いました。でも誰からも、「そんな情態で提出した物が54%なんかではありえない」と言われても、どんなに返ってくる点数派4%でした。今読むとその意味が判ります。以前、わたしの書いていたような論文ではみられなかった気の散乱した文章、以前にも増して長く、理解しにくい言葉と文章。その時、ベストを尽くして
作った物であっても未だに受け止められないぐらい辛い、傷む傷です。

3年生になると卒論が待っていました。
2年生で自分の学術に自信が無くなった上にまた伸し掛かるような重い論争とわたしの3年分の知識と分析が毎日わたしを襲ってはまた自分の汚点と向き合いながらの自分だけの闘い。病気なのだからそんなに頑張らなくていいと知っていても何処か諦めが付かず、人にも自分にもかきまわされる毎日に病気も身体も限界を感じていました。48時間起きていても身体が麻痺した感覚でよく聞こえる筈
がないものの音や人の声さえ聞こえるようになっていました。気の散乱と集中力、そして体重のの激減。何がわたしをそこまでして気を支えていたのか、今では詳しく憶えていません。
ただわたしの根本にあったのは、わたしの完璧主義、舞踊、声楽、絵画の厳しい「自分が落ちぶれ出したら自分を叩き直す」という仕付けと訓練にあったと思います。
それだけで、立っていました、多分。

しかし事は酷くなるばかりで春には試験に残って最終決断を下される前に日本でちゃんと治療を受けてまた戻るという道、どりらを選択するかに迷いましたが、家族が帰国するようアドバイスしたので、日本に帰る事を決めました。新しい仕事で忙しい姉に迎えにきてもらった頃には姉がこれが自分の妹とは思えないようなわたしに変わり果てていたと今でも話を聞きます。

寝るばかりの日々が何ヶ月も続きました。日本の精神科ではわたしが処方されていた抗うつ剤があまりにも効果に欠けるものであったので、確かな薬との生活が待っていました。また一度から自分を叩きあげる毎日。。。いつまで経っても終る事のないような生き地獄。それでもいつかは立ち直れると少しでも希望を掴む事、全てまたやり直しでした。その中で何度自殺未遂があったかもう憶えていません。それでも先生の指導と家族の支えの中にあったからこそまたどうにか自分を自分の足で立たせる方法を学び、静かな生活を送っていました。この頃が一番苦しかったのでしょうか、殆んど頼れる記憶がありません。

色んな季節、沢山の時間が過ぎ、色んな事が起こりました。何度も薬と自分の身体との調和、意識が遠くなる程の葛藤でした。

今生きているのが不思議なぐらいです。
今どんなに丈夫に生きていようが、いつまた同じ境遇に立たされるか判りません。
その為、今できるだけ頑張っています。その中でまだ何年かも前に報いを受けたあの気の散乱、今度は記憶の低下、睡眠傷害からくる奇怪な一時的な記憶喪失、わたしの気がどんなに強くなったからと言っても症状が明らかに酷くなるこの病気。それとも、わたしの薬の採り過ぎ?わたし自身判らないから、今回ドクターに会に行ったのです。それがあっさりと、「薬が貴女の病気を作っているのです」等、わたしは本当はうつではない等、今までわたしは受けてきた治療が否定されるかのような訊問。わたしは何度も頭の中で繰かえしました。もしわたしが今までうつでなくてこうゆう薬の治療を受けこうゆう結果になったのなら、わたしの人生、返してくだいさい。あれだけ苦しんだ生活を返してください、お願い。

今まで受けた事のない否定でした。
でもわたしにとっては、パンドラの箱を開けられたのようで、独り寝入ばな、泣いては泣いて、また自分が自分を失いそうで不安になり、寝たくとも寝れませんでした。わたしがもし今年、こんな気持ちでこのまま生活を送ったらわたしに二度と正気は戻らない気がします。もう戻ってこない記憶と自分を待つのに疲れて、自分が崩ていく音が聞こえます。自分と周囲を閉ざした冷たい世界。愛した人や愛する友達や家族。誰の声も此処には届きません。

人は暗闇の中にいて、一つの光が差して初めて暗闇を知ると聖書の何処かに書かれているのを思い出しています。それでも、暗闇の中にいて、なお、またそれ以上の暗闇を知る人もいるのだとわたしは思います。
posted by シルビア at 02:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 酸性雨(うつ)日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年10月07日

Over the mirage

昨日せっかく時間かけて書いたのにサーバーがダウンしました(怒)。
でわ、昨日書いたものをアップします。

皆さん、こんばんわです。
いや、日本ではおはようございますですね。
おはようございます(やり直し)。
またもや英吉利にすっかり住みついたせいか、日本語がしばしばヤバイところががありますが、我慢してください(笑)。

今日シルビアさんにとってもいい出来事がありました。
それは何か。
それは来週お届けします。嘘です。
今伝えます(はよせんかい)。

シルビアさんは今日、卒論担当の先生と卒論の事でについて話す為のアポがあり、朝10時にあわせて行きました。昨日午前1時ぐらいまで頑張って書いた原稿を持って。短い、限られた時間内で交わした論議と言いますか、わたしの卒論の章の事について話しあいましたところ、先生は「今現在これだけ素晴らしい論議を展開しているのは千鶴だけだ。誇りに思うよ」と言ってくれました。わたしが提出した序文はまだ読んでいないらしいですが、今日わたしが論議で証明した問題点について「非常に喜ばしい。それだけ情熱を注いでいる所が実に素晴らしい」と誉めていただえきました。せれに付けくあえて、今、わたしのペースで勉強すれば大丈夫だと仰いました。

シルビアさんは、涙が出る程嬉しかったといいます。

シルビアさんが卒論で論議する事は学界では激しい論争になるぐらいのトピックですし大きな課題でもありますので、それ故にかなりのプレシャーがかかっています。でも最近思うのです。このプレッシャーは悪いプレッシャーではないと。変に固くなって睡眠時間を減らす訳でもありませんし、むしろ朝早くに目覚めてから勉強した方がシルビアさんにはあっているみたいです。なので自分でもスト
レスになる方へ持って行かず、できるだけ楽しんで励むようにしています。でないとやっていけないです(笑)。でもシルビアさんは自分の大学は勿論の事、自分が属している学部が大好きですし、誇りに思っています。今年専攻している公議の内容も非常に刺激的ですし、熱中させるような事ばかりで、毎日楽しんで公議に行っています。

これぐらいの精神で挑まないと、意味がないですし、何よりこうゆう事を学ぶのが夢でしたので、本当に毎日が充実しています。

話は変わりますが、シルビアさんと同居しているボーイズ達の話をしましょう。去年少しだけ一緒に住んでいた印度人のサニーと中国人のリーとはまた一緒ですが、我が家にもう一人加わわりました。彼はまたサニーと一緒の印度人さんですが、ヒンズー教のとっても可愛い男の子です。医学生なのですが、一所懸命勉強していますし、何より楽しんでやっているようで頼もしいです。彼は非常にチャーミングな子で、シルビアさんのぼけに激しく突っ込んでくれます(笑)。サニーも突っ込んでくれますが、もし弟がいたらこんな感じかしら、とよく思う程です。なので兄弟のように茶化しあいします。今日はシルビアさんは完敗しました。くっそう、明日は絶対こっちが意地悪してやるんだから!リーは残念な事にあまりこのフラットにいませんが、いたら皆でワイワイ色んな話に花を咲かせ、お互い助けあっています。

皆それなりに忙しいのですが、毎日会話をするよう心がけています。シルビアさんだけがこのフラットの中の女なので、夜遊びする時のファッションチェックもしてくれます。でもこうゆうのは同じ女の子でないと嫌なところもありますが、「おい、そのスカート短すぎるぜ」等(笑)色々男の子から見た注意をしてくれます。こんな楽しい国際的なフラットもシルビアさんの誇りです。お互い、同じような目標にむかっている者同士、暮らしを充実させるのも大学で学べる特権ではないでしょうか。

さて、シルビアさんはこれからカミーユさんと名古屋のハニーにメールをしてからアレクサンダー大王の父者が誰の手によって殺されたかを勉強します(アレクサンダーの母ちゃんに決まってるだろうに)。

この視力が衰え生命を削ってでも辿りつきたい聖地があるんだ /「蜃気楼」by TAKUI.
posted by シルビア at 22:45| Comment(1) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年09月27日

今日この頃

こんばんはー。
明日から新学期が始まると言うのにノンキにインターネットとかして時間を潰しているシルビアさんですが、皆様、お元気ですか?えー、レスがup datingされてなくてごめんなさいです。今日ぐらいじゃないですかね、ゆっくりマターリとインターネットできたのは。それまで多忙の一言で済む毎日を過ごしていました。何がそんなに忙しいのか。シルビアさんもよく判りませんが(死)、何しろ英吉利に落ち着く為、友達に連絡したり、わたしが今年住んでいるフラット(アパルトマン嘘)の掃除、荷物の整理等、何しか時間と体力が必要とされる事で毎日忙しくしていました。ちょっと面倒だからといって疎かにしてはいけない眼科に行ったり、携帯屋さんに行ったり、と今やっておかないと後で困る事等を整理していました。つまらないとか言わなーい。

さてさて。
この間何故かグラゼロのHPに行きたくなり、サクサクッと行くと何と「解散」の文字がドーンとスクリーンに写ったものでワタワタすること小一時間、シルビアさん、かなり動揺しました、はい。しない方がおかしいのですが、この間徳山に行ったばっかりじゃないのー!とか、最近やっとFCに入ったばかりじゃないのー!と、パソコンに向かって泣き言を吐き、メンバーさんの日記を読んでピーピー泣いていました。

シルビアさんが大学を卒業するのも、次グラゼロに逢う時はちゃんと夢の欠片を見付けてから、と思っていたので非常にショックでした。ま、勿論の事、それだけが卒業する目的ではありませんが(笑)、グラゼロに関しては特にそう思っていたので本当にショックでした。今こんなにわたしに染み付いたグラゼロの曲がライブで聞けなくなる?と思うと涙がポロポロと自然に流れましたが、これも運命、今シルビアさんはこの解散について泣き言を言ってる場合じゃない、と思いました。生きている間は、こんな出来事で一杯さ、と強気になりましたが、そうしなければこの悲しさに負けそうだったので、自分の気持ちにブレーキをかけました。英語で言うとこうなります。

I really cannot afford to feel this way at the moment, I really can't.

と。
また後日か今日「毒吐日記」で触れるつもりのシルビアさんの元彼さんですが、彼に対しても同じ様な気持ちを抱きましてね、日本語で言うと、「そんな場合じゃないんだよ、こっちは」みたいなのね。 ま、グラゼロに対してそんな怖い事は思わないのですが、「悲しんでいる暇はない」とでも言いますか、そんな気持ちでいます。シルビアさんは一度悲しみ出したら歯止めが効かないので、自制しなくてはいけません。これも人生のハードルさ、フフフ、フフフ(ブルブルガタガタ←必死)ってな感じね。こうなるから何処かで現実逃避します。でも悪い意味で感情を無視するのではなくて、自分の目的を優先すると言いますか、シルビアさんの場合、時期が時期なだけあって余計、その選択に迫まられるとでも言うのですかねえ、こういう事に堪えながらも生きなければいけない時もあるのだと実感しました。ホント、違う意味で悲しいです。

でも眠りにつく前にふと想い出すのです。
グラゼロと過ごしてきたライブを。

沢山のKAZUKIさんの唄声。
メンバーさんの演奏、MC。。。

わたしの中でグラゼロがずっと生きていれば、大丈夫。

それでも想い出す時、涙が止りません。
posted by シルビア at 03:49| Comment(3) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年09月22日

シルビアさん降臨☆

皆さんお元気ですか?やっと最新版のNetscapeをダウンロードしてですね、自分のブログにアクセスできるようになりました。英吉利に到着してから一週間も経ちませんが、色々と忙しいです、はい。今晩なんて徹夜ですよ、明日、てか今日シルビアさんの卒論担当の先生に会いにいかなくてわならないので、さっきから訂正しまくりですよ、ゲホンゲホン。

ま、何には兎も有れ、ブログに開通したと言うことでお祝いでもしてください(笑)。

それにしても寒いですよ、英吉利は。即コート買いましたよ、あまりにも寒いので。日中で15度ぐらいですかねえ。シャワーから出たらブルブルガタガタ震えています。夜になると10度を超えます。嫌でも肌が白くなります。

今日の日記はこれくらいにしておきますが、また後でMUSICの日記でも書きますので読んでやってくださいね。
posted by シルビア at 13:37| Comment(5) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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